由緒・主祭神 

熊野那智神社縁起

 名取郡廣ノ浦に住む治兵衛という者がおりました。養老元年閏六月十五日早朝、漁に出るも漁が少なく港に戻らんとしたとき海底に光るものを見る。訝しみて網を投げ入れたところ藤の筏に抱かれた御神体でした。 治兵衛は御神体を家に持ち帰り朝な夕なに礼拝を欠かすことはありませんでした、しかしある時より夜毎廣ノ浦より西方の山並みに向かい龍燈のような光が走ります。治兵衛ら浦人大いに驚きまた懼れをなし神託を需めたところ「我羽黒飛龍の神なり」とお告げがあり、治兵衛自家に祀ることの不敬を悟り、異光の向かった高舘山に社殿を建立し羽黒飛龍大権現と号し社掌としてご神体を祀ることとなりました。
これが養老三年六月十日のこととなります。
 保安四年名取老女なる者、紀州熊野三社を高舘の地に勧請する、那智の御分霊を当山に合祀するにあたりこれより熊野那智権現と号し、この地も吉田村と改める。
 伊達家代々の崇敬厚く社地を拡張し社殿を造営し、年々祭祀料として三石五斗を寄進し社領の保護に尽くした。明治初め現社号に改められ、同五年村社列格、同四十年三月供進社に指定。明治初め元本社の末社春日神社、同四十二年に村内に鎮座していた、高舘、日吉、御田、薬師、八幡の各社を合祀し現在に至る。

閖上の名の由来

 治兵衛らが神託を需めたさいお告げに「波のまにまに、水の門なる廣ノ浦に揺り揚がることを以て、門に水を配して閖上(ユリアガリ)ノ濱と称せよ」いう託宣もあり、これより廣ノ浦を閖上と改めた説があります。また、ご神体をゆだねた藤のイカダを海中に解き放したが、それが向こう岸に流れ着き大きな藤の塚に成長したとつたえられている。それ故その地を藤塚と呼び現在もその名が残っています。


名取老女の伝承

 平安末期名取の地に旭という名の老女が住んでいました。若い頃は毎年のように紀州の熊野三社へ参詣しておりましたが、年老いて熊野へ行くことが難しくなり地域に熊野三社の分霊を祀る小さな祠を建ててお参りをしていました。 そんなある日、老女のもとに旅の山伏が訪れました。その山伏は老女に「私は松島に参詣するため熊野権現へお参りしたところ、夢枕に熊野権現が現れ『奥州に熊野権現を熱心に崇敬する者がいる。昔はよく熊野まで参詣に来ていたが年老いてなかなか来られないようだ。しかしそれでも毎日礼拝を欠かさないその者にこの手紙を渡して欲しい』と申されこれを託されたのです」といい、梛の葉に書かれた手紙を渡しました。そこには『道遠し 年もやうやう老いにけり 思い起こせよ 我も忘れじ』と書かれていました。熊野権現の心遣いに感謝し名取の高舘の地に社殿を建て熊野三社の御分霊を勧請しました。これが現在も残る名取熊野三社です。

御祭神

祭神
第一主神
羽黒飛龍大神(ハグロヒリュウノオオカミ)
御神徳  海上安全 大漁満足 身体健全 病気平癒 他
第二主神
熊野夫須美大神(クマノムスビノオオカミ)
御神徳  良縁成就 陰陽和合 交通安全 必勝祈願
黄泉事解男命(ヨモツコトサカオノミコト)
速玉神(ハヤタマノカミ)
家都御子神(ケツミコノカミ)
大穴牟遅神(オオナムチノカミ)
天照皇大神(アマテラスオオミカミ)
御神徳 家内安全 生業隆昌 五穀豊穣 健康生育 学業成就 心願成就  他
 

御神使

八咫烏[ヤタガラス]

  神武東征の際、道案内として天上より遣わせられた三本の足を持った鳥です。その故事より道案内の神として旅行安全や交通安全、必勝祈願に御利益にあるといわれています。
また現在では日本サッカー協会のシンボルマークにも採用されています
  
 写真は熊野那智大社(和歌山)の八咫烏

 文化財

  懸仏(御正体)かけぼとけ(みしょうたい)
<写真は宮城県のHPから>

明治31年(1898)7月の拝殿の移転工事中に床下から発見され、鏡や懸仏が155点を数え,国や県の文化財となっている懸仏は鏡と仏像を組み合わせたもので平安後期~鎌倉時代のものが多い